部落差別が生んだえん罪 狭山事件
いまから37年前の1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
一審は死刑判決、二審は無期懲役判決で1977年に無期懲役判決が確定し、石川さんはただちに再審請求を申し立てました。第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てるとともに、すべての証拠の開示と事実調べをおこなうよう東京高裁、東京高検にたいして求めてきました。
しかしながら、1999年7月9日、東京高裁・高木裁判長は事実調べも行なわないままに、抜き打ち的に再審請求を棄却しました。この不当な棄却決定に対し、7月12日、弁護団は直ちに東京高裁に異議申立をおこない、現在に至っています。
東京高裁は事実調べを
狭山弁護団は、石川一雄さんの無実を証明するたくさんの新証拠を裁判所に提出しています。
有罪判決では犯人の残した脅迫状の筆跡が石川さんの筆跡と一致するとされていました。その根拠とされた警察の鑑識の筆跡鑑定はひじょうにズサンなものでした。弁護団は学習院大学の大野晋・名誉教授や元京都府警鑑識課員などの筆跡は異なるという鑑定書を提出しています。
狭山事件の二審の有罪判決が出されたのは1974年10月31日。それ以来、24年がたちますが、この間、一度も裁判所による証人尋問や現場検証などの事実調べはおこなわれていません。
81人の法学者が、事実調べを求める署名を東京高裁に提出しています。わたしたちは、各界の著名な人たちの呼びかけによる「狭山事件の公正な裁判と事実調べを求める署名」をおこなっています。
多くのみなさんがこの署名運動にご協力くださるよう訴えます。
「見えない手錠」を一日も早くはずしたい!
24歳で別件逮捕された石川一雄さんは、獄中31年7カ月の獄中生活を余儀無くされ、1994年12月21日、再審請求中で仮出獄をはたしました。そして、いまも無実を叫びつづけ、再審を求めつづけています。
石川一雄さんは昨年末に結婚した早智子さんとともに、「わたしの手にかかっている『見えない手錠』を一日も早くはずしたい」と訴えています。
37年にわたる無実を叫びにこたえて、わたしたち一人ひとりの人権の問題として、狭山事件の再審を実現し、差別とえん罪を生み出す社会を変えて行かなければなりません。
狭山事件の事実調べと全証拠開示、再審開始を実現するために、すべてのみなさんのご支援を訴えます。
東京高検は国連の勧告にしたがい証拠リストを開示せよ!
狭山事件の弁護団は、東京高等検察庁にたいして、犯行現場の血痕検査報告書や足跡の写真、証拠リストなどを開示するよう求めています。
ところが、東京高検は、証拠リストなどがあることは認めながら、開示を拒否しています。
再審請求でも、弁護側が必要な証拠の開示を受けることができるのは国際的には当然のこととされています。日本も批准している国際人権規約からしても、証拠を隠すなどということは許されません。
1993年11月、国連の国際人権規約委員会は、日本政府にたいして「弁護人が警察などにあるすべての証拠を閲覧・利用できるようにすること」を勧告しています。
一昨年、日本政府は国連事務総長あての報告書で「日本では証拠の開示を受ける機会は保障されている」と報告しています。
狭山事件の証拠開示請求に東京高検がこたえないならば、国連に虚偽の報告を提出したことになり、大きな問題となります。
東京高検はただちに狭山事件の弁護団が要求している証拠リストなどの開示をしなければなりません。